2003-05-27 第156回国会 参議院 法務委員会 第14号
それによりますと、ジャーナリストの大熊由紀子氏、山上東京医科歯科大学教授、日弁連、法務省、厚生省、及び日精協関係からは犬尾先生、鹿児島の今村先生、なるほどね、保岡先生は鹿児島ですからね、鹿児島の先生も来ていますね。東京の長谷川先生と筆者が参加しており、これは私的勉強会ですよ。それぞれの立場からの意見を述べ、議論した。
それによりますと、ジャーナリストの大熊由紀子氏、山上東京医科歯科大学教授、日弁連、法務省、厚生省、及び日精協関係からは犬尾先生、鹿児島の今村先生、なるほどね、保岡先生は鹿児島ですからね、鹿児島の先生も来ていますね。東京の長谷川先生と筆者が参加しており、これは私的勉強会ですよ。それぞれの立場からの意見を述べ、議論した。
しかし、愛山政経調査会は私の政治団体でありますから、秘書をやめた段階でだれかに代表をかえなければならないな、このようなことから、友人の、当時灘尾先生の秘書をされておりました橋本氏に要請をし、橋本氏が一時的にその代表を引き受けていただいておった。
しかし、私は、産業対策として特例融資制度とか今るる御紹介がありましたが、役に立った中小企業の皆さんもいるかもしれないが、芦尾先生の実家の長田区やら兵庫区の下町の商店街、人口が十二万から八万になってしまったようなところの、お父さんとお母さんでやっているような商店街でそんな貸し付けなんかできないのですよ。
六千億のとき、私は与党プロジェクトにおりましたからその経過は存じておりますが、なぜ六千億だったのか、そしてその後三千億積み上げられるわけでありますけれども、なぜ三千億増額したのかというようなこと、その辺の経緯について芦尾先生から御説明をいただきたい。 それから、これは全体で、三千億、六千億、合計して十年後には三千百五十億の果実が出るわけでありまして、それを使って震災復興をする。
きょうは芦尾先生がおいでになっているわけですが、震災時は兵庫県の副知事であられたということであります。そして、震災復興の第一線で大混乱期の中を行政のナンバーツーとして仕事をしてこられたというわけでございますから、少しそのときの経験も含めてお聞きしておきたいと思うのであります。
私たち自由民主党におきましても、芦尾先生初め震災や災害に熱心な先生方がおられまして、先ほどの全国知事会とかあるいは政府ともいろいろ折衝をしながら、あるいは御意見を聞きながら、今国会に間に合うように、被災者の住宅再建、生活再建に役立つような法案をつくりたいというふうに思っておるところでございます。
きょう芦尾先生がいるから余り言えませんけれども、そういう意識がないというところ、防災訓練もろくにしていない。これはいろいろ政治的なこともあるでしょうけれども、あの地域は特にそういうことをやっていないところです、神戸市も含めて。だから地震の被害が、それはもう東京の今のおどかされている人たちと比べたら全然比較にならないんじゃないかなという疑問があります。
○国務大臣(古賀誠君) 今、芦尾先生の方からいろいろな選択肢を検討する中で具体的な手法と申しますか、そういったことを例にしてお話をいただいたというふうに思っております。
そういった意味において、私は政治の責任というのは非常に重いと思うわけでございますが、池 尾先生に最後に、こういった政治の責任、基本的方向をどういうふうに示していくかということも含めまして、先生の御見解をお聞きして終わります。
幸尾先生、東海大学のこの方も航空工学の専門家であります。それからもう一人、山田さんはやはり航空工学技術系の専門家であります。ですから、この十二月六日に出された「概要」は、これは私は当然だと思うんです。例えば十一月二十九日に指摘がありましたさまざまな疑惑、この先生たちに解明する理由もないし、この先生たちの責任ではないと思うんです。別のことでございます。
○国務大臣(畑英次郎君) 今中尾先生御指摘のとおり、残念ながら、生活者といいますものの生活環境整備の問題のおくれの実態といいますものは、やはり過疎地域であり、とりわけ農山漁村である。私は、これは当たりさわりがあるかもしれませんけれども、そういう中にございましても、やはり漁村集落におきましては、そういった過疎地域の中におきましても厳しい生活環境の実態である。
重要な仕事をしていることになれば政治家が教師以上に重要な仕事をしている、生殺与奪の権を握っているから政治家のことを聖職と言うのかと言いましたら、灘尾先生は紳士でありますから、政治家のことについては聖職とは言いません。
これは、亡くなられた松村先生が二回やられ、そして今御健在でございます灘尾先生が四回やられたということもありまして、森文部大臣は第四十三代。在職期間を平均してみますと、大体十一カ月で文部大臣がかわっておるということであります。教育は、政党から出すにしろ――戦後はしばらくの間、御承知のように文人文部大臣、民間から出られた文部大臣がやられておる時期が相当ありました。
そういう意味からいうと、稻葉先生は私たちの校長先生のような方でございまして、私ども今日こういう立場を得たというのも、稻葉先生や坂田先生あるいは灘尾先生という大先輩の御指導のもとになったわけであります。
我が党におきましても、灘尾先生のとき以来、文教関係の熱心な議員の皆さんに非常に御努力いただいて、独特の教育体系を築き上げて今までもやってきたわけで、これについては非常に敬意を表しておる次第でございます。 しかし、最近の事例を見ますと、一文部省の手に負えないような教育の広がりが出てきております。たとえば幼保一元化というような問題、いい悪いは、別として。
せんだっても灘尾先生とお話ししている間にこのお話も出ました。ただ、広島というところは土地がないんでなということを非常に心配しておりました。
灘尾先生もそうです。昔、不幸な第二次大戦に突っ込んでいったときいわゆる優秀な官僚であった皆さん方は、一様にあの当時の状態を非常に残念がっておるわけです。先日、町村先生に聞いた。当時宮内大臣が湯淺倉平さんだった。昭和八年の二月十五日、松岡洋右外務大臣が国際連盟に行って、そうして日本が国際連盟を脱退するということを決意をしている。当時の天皇陛下は、そのためにこの松岡洋右さんを呼んで陪食の栄誉を与えた。
これがよくわかっていないと、ついそういうことが出ますので、大臣が、教育が大事だと言われるのならば、文部大臣の人選にあたっては——それは、灘尾先生のようなりっぱな文部大臣もおられまして、教員定数のようなりっぱなお仕事もなさいました。
前に文部大臣をやっておられました灘尾先生も僻地の御出身だったと。その他いろいろ政治家の方で僻地の御出身の方がおられますけれども、まあそういう意味で考えますと、少人数の教育の効果というのはやはりあると思います。その反面、マイナスの面もあるわけでございます。その中で特に指摘をされておりますのは、先生が免許状を持たずに教えるというふうな場合がある。
それで、そのときの灘尾先生や砂原先生の切実なお訴えをいま、なくなられたきょう私は思い出すわけでございますが、ほんとうに被爆を受けた人たちは、言ってもしかたがないことだから言わないけれども、実に、肉体的には言い知れない何か不安に襲われているんだということで、しじゅう、顔を見るたびに山下さん、あれを強化しておくれよ、原爆被爆者の援護を強化しておくれよと常に言っておられました。
のほどをよく察知しておりまして、前にはよく私どもと、安田講堂に旗が立っていたころは懇談会をしてくださいましたが、安田講堂が陥落いたしますと、どうも野党との連絡が急激に悪くなってまいりまして、特に、ときとしては、無頼漢のような印象を与える発言をされる、いわゆる猛烈な発言をされる公安委員会の委員長が、まるでその前日まではナメクジに塩がかかったのではあるまいかと心配しておりましたのが、あの日から急に元気になり、灘尾先生